科学とは何か

一般の科学不信が高まってる今日この頃
一般的に、科学って言ったときに連想されるのは科学技術やそれによってできた電子機器などなどではないかと思う。

けど、実際の科学はサイエンス=スキエンティア=知識であって、科学者の営みとしての科学はつまり知識を追い求める方法論のこと。
だから、科学的に正しい=事実であるというわけじゃないし、科学的に間違っている=事実でないというわけでもない。
でも、それに過剰に反応して科学にも分からないことがあるんだから調べてみなきゃ分からないはずだとか、わからないことがたくさんあるんだからこれも否定できないんじゃないかとか言うことがよく言われたりもするけど、それも違う。


現時点でいろいろ確かにわかっていることはあって、様々な方法で検証されてその上で耐えてきた理論と矛盾することは、まず間違っていると言っていい。
新しい理論、従来の発想を覆す理論や事実というのは、ちゃんと過去のデータの説明も付くもので、より包括的な理論になる場合がほとんど。
ニュートン物理学が否定されて相対性理論量子力学が出てきたこととかね。


ただ、新しい理論はより正しくあるべきというのはまたちょっと難しい問題で・・・
例えば、今じゃ常識になってる地動説。
これが最初に出てきた時、一般に信じられているのは天動説だったんだけど、実は星の動きについての説明や計算は天動説の方が正確だった。
なぜ地動説が選ばれたかというと、そのほうが単純に説明ができたから。
天動説での星の動きの説明はあまりに複雑すぎた。
今では周りの理論が整備されて、地動説で充分に正確な予測が成り立つように成っているけど、初期の地動説はそれくらい精度は悪いものだった。


こういう風に、より単純なものを選ぶという指針・原理を【オッカムの剃刀】という。
多くの場合、これで正しいものを選択することが出来る。
ただし、ここで大事なのは、これによって切り捨てられた複雑な理論は否定されたわけじゃなく、保留されただけということ。
一先ず切り捨てられずに残った理論を否定する事実があれば再浮上する可能性もあるし、どちらが正しいか検証することが可能な方法があればそれによって否定されたり、立証されたりする。
ただ、どちらでも説明できるのであればより単純な方を暫定的に置くということ。
現実問題として結構この方法でうまくいっているというのは面白い事実ではある。


閑話休題
だから、科学はある程度正確に否定したり肯定したりも出来る。
ある事象に対して、有り得ない事と断じることも可能だし、まず確実と言うことも可能である。
ただ、その時に大事なのは『何について』『どういう理由で』そのように判断したのかということ。
例えば、今回の地震原発事故。
有り得ないと言われていたと言う人もいるが、これは飽くまで『確率的に遭遇することはまず無い』という意味でしか使われていなかったと思う。
一部のおかしい人を除いて、ね。そのへんは、『何について』『どういう理由で』をよく見れば判断は付く。
確率的に低いことは、逆に言うと起こりうるということ。
その確率も、正確に導き出せることもあれば、根拠やデータが少ないために信ぴょう性の低いものしか出せないこともある(地震予測の%とか)
だから、事象と起こる/起こらないの間の部分がじつは重要で、この部分をすっ飛ばして結論だけ先取りしようとする人たちが勝手に踊っていただけ
だけど、これは誰しもやりがちなことで、でも科学が存在するのはこの間の部分を含めての解答


ちゃんと間の部分を見ておけば、『原理的に起こりえない』(今の根本となっている理論がひっくり返るようなことがない限り起きない)のか『確率的に有り得ない』(低いから気にすることはない/気にする方が無駄が大きい)のかはわかる。


でもって、例えば今回の原発事故。これは確率的に起こりえないものが連鎖した形。
一部には確かに、絶対安全なんて変なこと言ってる人いたらしいけど、常識的に考えて事故が起きる可能性は0なんて有り得ないはず。
なんせ、自然界でも偶然、臨界しちゃうようなもの(天然の原子炉がある)を取り扱っているわけだし、きちんとした管理下においておかないと危ないものがノーミスでずっと管理し続けられるなんて、ちょっと考えれば誰も思わない。
ましてや、過去に実際に何件か起きているわけで、それを絶対に安全なものと信じていた方が問題。
ずっと推進派と反対派の変な対立がちょくちょくニュースになっていて(避難訓練しようとしたら、『絶対安全』なんだから、訓練する必要ないだろ。必要なら原発やめろ→じゃあ、訓練止めますとか)真っ当な推進派・許容派・反対派は何を馬鹿な事言ってる/やってるんだってことを繰り返してた
こういう内容では0か100かなんてものは殆ど無い。
原発を使うべきかどうかの議論はさておいて、使うのであれば事故は起こり得るものとして、コスト的に可能な範囲で事故を防ぐ対策は十分に取られるべきであったし(より安全な新型の新設と交換で古いタイプの廃炉や、設備の補修・改善など)、起きてしまった場合の最悪は想定してそれに対する対応策も予め協議して練っておくべきだった。
今回、国際的な基準としてある程度出されている原発事故対応の指針についての議論で実際の動きを止めてしまったり、その指針の部分に従ってその指針の意図するところを理解しないで用いようとしていたり(例:年間20ミリシーベルトで許容して『除染をしない』)なんてのをやっているのもその準備の不十分さが主因だと思う。


一方で、この放射線問題に大して、変な情報が出まわったりする。
例えば、特定の菌が放射性物質を分解して無害化する、とか。
こういうのは、『原理的に起こりえない』部類で高校レベルの知識で判別がつく。
生物レベルで起きている現象は『化学反応』で、つまり分子レベルの操作。
放射能を持つのは原子であって、分子レベルでいくら分解したり結合したりして物質を作り替えても放射能はなくならない。
原子を変えられる方法は、限られていて『半減期を待つ』(時間が経てば勝手に崩壊して別の原子になる)『高エネルギーで圧縮する』(例えば、太陽の重力の中心近く。原子同士がくっついて別のものに変わる。)『高エネルギーをぶつける』(加速器など。原子をくっつけたり壊したり出来る)
ちなみに、今の核分裂型の原子炉に使われているのは、放射能を持つ原子が出す放射線によって周囲の原子を変えて連鎖反応を引き起こすもの。


だからって、これを見聞きした人が放射能に生物は役に立たないって結論だけ引き出して覚えてしまうと、それもまたおかしい。
例えば、放射性物質を選択的に取り込む植物や微生物があったとする。
これは、原理的に可能で、実際に起きてる。
で、こうやって取り込んだやつを集めてどこかに運べばその場所の除染は出来る。
単に、存在を消せないだけで、移動・コントロールしやすい形にするという意味では有効な手段になりうる。
ただ、前述のように放射性物質そのものを変えたり消したりするわけじゃないので、どうやって集めるかとか、どこに運ぶかとかの問題に変わるので、そこを解決しないとダメというのもちゃんと間を見ればわかる。


科学が、なにかの事象に対して語る時、かならず前提条件がある。
例えば、原発なら、どの程度の天災でなら安全。その程度で済む確率はどれくらいだから、どの程度安全。どういう事象にはどういう対応をとっていて、だから安全。
それは逆を返せば、その想定に入っていない場合は安全とは限らないということ。(これは=危険を意味しないというのも大事。これは集合の問題。)
例えば、放射性物質の除去なら、原子は基本的には変えられないという原則が正しければ有り得ない。その原則が成り立つ範囲で事象を語っているなら有り得ない。その原則が成り立つと考えられている範囲が正しければ有り得ない。など。


科学の役割ってそういうもの。
科学は答えをくれるものじゃなくて、答えの出し方を教えてくれるもの。
その答えがどれほど正しいか、どの程度正しいかもちゃんと分かるようになってる。
そして、上には書かなかったけど、科学では原理的にわかりえないこともわかってる。
原理的にわかりえないというのはつまり、いくら実験しても証明する手段がないということ。
わかりえないかどうか分からないものというのもあるし、現在では技術的に証明する手段がない(コストや規模、時間の問題で実験することができない)ものもあるし、単にまだ実験が終わっていないというものもある。
そういうのを全部一緒くたにして、科学を否定したりするのは、科学(の出す結論)を信仰するのと同じくらい愚かな行為。


本来は、こういう科学という方法論を学ぶのが義務教育での理科の役割なんだと思う。
というか、ちゃんと学べるようになっているはずなんだけど、需要の方は結論である『知識』だけになってるから、結局歪んだ形で身に付いている人たちが少なからずいる。
ちゃんと、推論と実験・実証・証明に結びつけての知識を科学・理科として教えるのが大事なんじゃないか、それが科学リテラシーなんじゃないかと。