馬のせい?

自分の騎乗の感想で、よく馬のどこが悪いという表現をします。
聞く人が聞けば、それは馬が悪いんじゃなくて人が出来ていないだけだという考え方もあるでしょう。
たしかに、もっと乗れる人が乗ればそれなりにいい運動が出来るのかもしれません。
それほど自分の騎乗技術が高くないこともわかっているから、それには納得できます。
ただ、それでも、他の馬であれば出来ることがその馬で出来ないことであれば
それはまた馬のせいでもあるというのが自分の考え方です。


ただし、コレだけを聞けば勿論、言い訳に聞こえてしまうかもしれませんが、これは決して逃げ道ではありません。
結局、その馬の状態をそのレベルにしているのも騎手のせいなのです。
下手は下手なりに時間をかけて少しずつ人馬双方が改善していけば出来るはずです。
馬のどこが悪かったという感想は、馬が悪かったから出来なかったで終わるものではなく
どの点が悪くて、どこに原因があるのか?
その状態で人or馬がどのようなトレーニングを必要としているのか?
そういったことを考えるための情報なのです。
だからあえて、馬のどの点が悪かったという表現を使います。
出来ないのは馬が悪いという表現をします。


ここで必要なのはそれとは別に、さらにもう一歩踏み込んで『では、どうすれば改善できるのか?』と投げかけます。
このときに初めて騎手が全責任を被るように考えます。
というのは、広い意味で騎手がこの『馬の悪さ』を作り出しているからです。
もともとの馬の癖の部分であっても「改善されていないこと」は騎手の責任です。
逆に、焦って部分を改善しようとして他の部分を崩した場合も騎手の「判断ミス」になります。
知識不足や経験不足も騎手の責任になります。
もちろん、この時、仕方ないところは仕方ないとして構いません。
今はここまで、残りは次回という形でも構わないのです。


ただ、今日はとにかく馬がダメだったとか、馬はよかった、けど人がダメだったとかで終わってしまうことはいけません。
ダメならダメで、それがなぜか、馬が悪いなら馬のどこがダメだったのか、
馬はよかったというなら、人がどの点でダメでなぜ馬がよかったのに運動としてダメだったのか
それらの点を反省していかなければなりません。
だいたい、人がダメでも最低限のことが出来るなら馬がよければそれなりのパフォーマンスを見せるはずです。
馬がよかったのに、というのなら一人乗りをするレベルではないとさえいえます。
一人乗りができるレベルでまったくダメな騎乗であれば、馬にも何かしら問題があると考えていいのです。
馬に問題があった上で、それをフォロー・改善できない騎手に問題があるのがあって
乗ってその問題を感じ取ろう、見つけよう、改善しようという気持ちが無ければ騎手も馬も良くはなりません。
その意味で、是非『騎乗即ち調教』という考えで乗ってしかるべきです。
結果的に馬の調教レベルを崩してしまうことは未熟な騎手なら十分ありえます。
でも、端から馬をよくしようという意識無しに自分のことばかり考えていても何も実を結びません。
乗っているのは機械ではなく生き物であることをしっかり頭に入れておくべきです。

人馬一体を目指すのであるから、人の悪さと馬の悪さには相互につながりがあります。
純粋にどちらか片方だけの問題としてみるのではなく、いろいろな可能性を考えて乗り越えていきましょう。